Blog

シティバプテスト教会が信じること①聖書の霊感

私たちは、聖書がただの古い本や歴史的な記録ではなく、神ご自身が人類に与えた特別なメッセージだと信じています。この特別な性質を「聖書の霊感」と呼んでいます。これは、聖書が人間の知恵や想像ではなく、神が人々を通して語った言葉であるという考えを指しています。

どうやって書かれたのか
聖書は何百年もの間、多くの異なる人々によって書かれました。ある人は預言者、ある人は王、またある人は漁師や学者でした。しかし、私たちはそのすべての文章が神の導きによって書かれたと信じています。人間の著者はそれぞれの個性や語彙を用いましたが、神が彼らを導いて書く内容を選ばせたため、最終的には神の意図が完全に表現されているのです。

聖書が特別な理由
聖書の内容は、神と人間の関係について深く語っています。世界の創造から始まり、私たちがどのように神との関係を失い、そして神がその関係を回復するためにどのような計画を持っているのかが書かれています。その中心にあるのが、神の子イエス・キリストの物語です。聖書は神の愛と救いの計画を明らかにし、私たちがどのように生きるべきかを教えてくれます。

信頼できる理由
私たちは聖書に誤りがないと信じています。それは、神が完璧なお方であり、矛盾や間違いのないメッセージを私たちに伝えることができるからです。この信頼性は、歴史的な証拠や預言が実現した事実にも裏付けられています。また、聖書の教えは何千年もの間、人々の人生を変え続けてきました。

どうして重要なのか
聖書はただの教訓を与える本ではありません。私たちの人生の道しるべであり、真理そのものです。それは、私たちがどう生きるべきか、どのようにして神と良い関係を持つかを教えてくれる唯一の基準です。聖書を通して、私たちは神がどれほど私たちを愛しているかを知り、その愛に応えていく方法を学びます。

誰にでも開かれている
聖書は特定の人たちのためだけに書かれたものではありません。すべての人に向けた神からのメッセージです。どんな背景や人生経験を持つ人でも、聖書を読むことで神との関係を深めることができます。

聖書を読んでみませんか
もし興味があるなら、ぜひ聖書を手に取ってみてください。読む中でわからないことや質問が出てくるかもしれませんが、それは良いことです。一緒に聖書を学び、神がどのようなお方であるかを探求するお手伝いをしたいと思います。

シティバプテスト教会が信じること

シティバプテスト教会が信じていること

■聖書の霊感
私たちは聖書が神の言葉として逐語的に霊感を受けたものであると信じます。旧約・新約聖書の書物は神から吹き込まれ、言葉そのものも人間の著者の語彙から神が選ばれたため、聖書は神の言葉そのものであり、すべての主張と教えにおいて誤りがありません。そのため、聖書は教義と生活において唯一無謬の権威です。ゆえに、これは神から人への特別な啓示であり、真のキリスト教の唯一の基盤です。(2テモテ3:16-17; マタイ5:18; 使徒1:16; マルコ12:36; 2ペテロ1:19-21; ヘブル4:12; ヨハネ10:35; 16:12,13; 17:17)

■父なる神の人格
私たちは、神がその存在において至高であり、永遠であり、完全であると信じます。また、三位一体を信じます。すなわち、父、子、聖霊という三つの位格が神格において一つであり、それぞれが力と栄光において等しいお方です。神は人格を持ち、霊であり、全知、全能、完全、不変、永遠、聖、愛、知恵、そして力を有しています。神は世界の創造主としてこの世と絶対的に区別されますが、万物の維持者として全地に遍在しています。神は自己存在であり、被造物との関係において自己啓示されます。(創世記1:1; マタイ28:19; 申命記4:35; 6:4; 1コリント8:6; ヨハネ1:1-3; ローマ1:2-4; エペソ4:3-6)

■イエス・キリストの人格
私たちは、キリストの処女降誕、神性、罪なき生涯、贖いの十字架、肉体の復活と昇天、そして個人的かつ前千年王国的再臨を信じます。主イエス・キリストは三位一体の第二の位格であり、神が肉体をとられた存在であり、他の人と異なるかたちで処女から生まれました。彼は完全に罪なき生活を送り、十字架上で人の罪のために代償として死ぬことで罪人の代わりとなりました。イエス・キリストは三日目に死からよみがえり、贖罪の完全な成就と神の義怒の満足を保証しました。彼は肉体を持って天に昇り、聖徒を迎えに戻られます。その再臨は差し迫っており、個人的で、患難時代の前に、そして千年王国の前に起こるものとなります。(イザヤ7:14; マタイ1:18; ヨハネ1:1; 14:3; 1テサロニケ4:16; ルカ1:35; 1ペテロ2:22; 3:18)

■聖霊の人格
私たちは、聖霊が三位一体の実行者であり、神の救いの計画を実現されると信じます。キリスト者は聖霊を分かち合い、聖霊によって奉仕の力を得ます。聖霊は人格であり、神のすべての属性を備えています。聖霊は罪と義、裁きについて不信者に悟らせ、信者を再生し、封印し、内住し、満たし、奉仕のための賜物を授けます。また、信者に教え、聖なる生き方に導きます。私たちは聖書が、カリスマ運動のような経験主義的な異言やエキュメニズムの実践を聖霊の働きとして否定していると信じます。聖霊の証は自分自身ではなく、イエス・キリストとキリスト中心の贖罪の真理です。(ヨハネ14:16,17; 16:8; 1コリント3:16; 使徒5:3,4; エペソ1:13,14; ローマ8:9)

■人の堕落
人は神のかたちに創造されましたが、自らの選択によって罪と死に陥りました。そのため、すべての人は罪深く、永遠の裁きに定められています。人は神の直接の行為により神のかたちに創造されましたが、神の明示された意志に背いたため、その地位を失い、堕落しました。その結果、すべての人が本質的にも選択的にも罪深く、神の義から遠く離れています。したがって、全ての人は神の命と家族から疎外され、無実を主張することができず、神の正しい裁きと怒りを受け、救済の手段を持ちません。(創世記1:27; ローマ3:23; 5:12-19; イザヤ53:6; エペソ2:1-3)

■罪人の救い
罪人の救いは完全に恵みによるものであり、イエス・キリストが唯一の救いの道であると信じます。救いは恵みを通じて十字架でのキリストの完成された働きに基づいています。救いは神の無償の賜物であり、人のいかなる美徳や行いによっても獲得されるものではなく、主イエス・キリストに対する個人的な信仰を通じてのみ受け取られます。すべての真の信者は、永遠の命、義の状態、新生による神の家族への息子の地位という賜物を今持っています。キリストの十字架は救いであり、身代わりであり、宥めるものであり、すべての失われた人々の唯一の和解の基盤です。イエス・キリストと彼の流された血以外に救いはあり得ないと信じます。(ヨハネ3:3-6, 16; 10:28-29; 使徒16:31; エペソ2:8-10; 1テモテ2:5,6; 1ペテロ1:18-23)

■救いの無償の賜物
救いの祝福は福音によって無償で提供されており、罪人が救われない唯一の理由は、人間自身の堕落と福音の自発的な拒絶です。救いはイエス・キリストによって十字架で成し遂げられ、すべての人に無償の賜物として信仰によって受け取られます。すべての人はキリストにおける救いの賜物を受ける責任がありますが、神の御霊による福音の提示に応答する者のみが救われます。(ヨハネ1:12; 3:16; 5:24; 12:46; 使徒16:31; ローマ10:11-13)

■信者の確信
イエス・キリストを救い主として受け入れた者は永遠に確信が与えられます。この確信はイエス・キリストの完成された働きに基づいており、真の信者は神の所有物として永遠に守られます。信者の確信は状況や感情の経験や強さに依存せず、神によって受け入れられた和解の基盤を受け入れることに基づきます。(ヨハネ10:27-30; 1ヨハネ2:1-2; ローマ8:31-34, 38-39; 1コリント6:19; ヘブル2:10)

■教会
目に見える教会は、バプテスマ(洗礼)を受けた信者の集まりであり、新約聖書の原則を実践し、教義を信じ、儀式を遵守し、自律を行使します。地方教会は、信仰告白に基づいてバプテスマを受けた信者の組織体であり、二つの職(牧師と執事)を認め、自治を保ち、働き、礼拝、相互の成長、儀式の遵守、福音の世界的な宣教を目的としています。教会は旧約のイスラエルとは異なり、キリストを頭とする自律的なものです。(マタイ28:19-20; エペソ1:22,23; 使徒2:41-47; エペソ4:11-13; 1コリント12)

■天国と地獄
私たちは、救われた者の天国における永遠の祝福と、滅びた者の地獄における永遠の罰を信じます。救われた者と滅びた者の体の復活を信じ、救われた者の霊は死後すぐにキリストと共に天国に行きます。彼らの行いはキリストの裁きの座で評価され、報酬が与えられます。滅びた者の霊は死後すぐにハデスに下り、最終的に白い大きな御座の裁きで火の池に投げ込まれ、永遠の罰を受けます。(ヨハネ5:28,29; 14:2; 黙示録20:14,15; 21:4; マタイ25:46)

「罪」を知り、神の前に正しく歩むことのすばらしさ

「罪」という言葉を聞くと、重々しい響きを感じるかもしれません。「私は悪いことなんてしていない」と思う方もいるでしょう。
しかし、聖書が語る「罪」とは、私たちが想像する以上に深い意味を持っています。そして、罪を知り、それを赦してくださる神の愛を受け入れることは、人生に驚くべき平安と喜びをもたらします。

罪とは何か?
聖書が教える「罪」とは、「神の基準に届かないこと」を意味します。
神は私たちを愛し、完全な愛と正義の中で生きるように望まれています。
しかし、私たちは日々の中で、自分勝手な思いや行動をしてしまい、神が求める姿から離れてしまうのです。

ローマ人への手紙にはこう書かれています。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)

これは、誰もが心の中に罪を持ち、それが原因で神と完全に交わることができない状態を示しています。
たとえ大きな犯罪を犯していなくても、心の中にある怒り、妬み、嘘なども、神の前では罪にあたります。

罪の結果
罪は、神との関係を壊し、私たちの心を不安や孤独で満たします。
聖書は、罪がもたらす最終的な結果についてこう警告しています。

「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)

ここで言う「死」とは、肉体的な死だけでなく、神との永遠の分離を指します。
しかし、神は私たちを見捨てることなく、この罪の問題を解決する道を備えてくださいました。

イエス・キリストによる赦し
神は私たちを深く愛し、罪の問題を解決するためにイエス・キリストをこの世に送られました。
イエスは十字架で私たちの罪を背負い、その代価を支払うために死なれました。
そして、死を打ち破り復活されたことで、罪と死の力に勝利されたのです。

「しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)

私たちが自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主として受け入れるとき、罪は赦され、神との関係が回復します。
この赦しは、どんなに大きな罪であっても、完全で無条件のものです。

神の前に正しく歩むことのすばらしさ
罪の赦しを受けた者には、新しい生き方が与えられます。
それは、罪に縛られた過去から解放され、神の愛と恵みの中で自由に歩む人生です。

神の前に正しく歩むとは、単に「良い行いをする」ということではありません。
それは、神を信じ、神と共に生きる喜びを持つことです。
私たちは、神の愛に応える形で、感謝と謙遜の心をもって生活するよう導かれます。

ガラテヤ人への手紙には、こう記されています。

「御霊によって歩むなら、肉の欲望を満たすことはありません」(ガラテヤ5:16)

神の前に正しく歩むとき、私たちの心には平安が訪れ、人との関係も変わり始めます。赦された者として、私たちもまた他者を赦し、愛する力を得るのです。

罪を認めることは重荷ではなく、自由への道
罪を認めることは、自分を責めるためではなく、神の愛と赦しを受け取る第一歩です。
罪を告白することで、私たちはその重荷から解放されます。ヨハネの手紙にはこうあります。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)

罪を認めるのは恥ずべきことではなく、神の愛に触れる素晴らしい機会なのです。

私たちは皆、罪を持つ存在ですが、神はそのままの私たちを愛し、赦しを与えたいと願っています。
そして、赦された私たちは、新しい希望と目的を持って生きることができます。
神の前に正しく歩むことの喜びを、一緒に体験してみませんか?
あなたを教会でお迎えできることを心からお待ちしています。

聖書の魅力を知る—4つの福音書から読み始めてみませんか

聖書に興味があるけれど、どこから始めたらいいのかわからない、そんな方も多いのではないでしょうか?私たちのシティバプテスト教会では、初心者の方でも参加しやすい聖書の学びの機会を提供しています。特に、キリスト教の核心である「4つの福音書」は、初めての方にとってもとてもわかりやすく、キリスト教の基礎を知るための絶好の入り口です。

今回は、聖書の中でも特に大切にされている「4つの福音書」について、その概要をご紹介します。これを通じて、イエス・キリストがどのような人物であり、何を教えてくれたのか、少しでも興味を持っていただければ幸いです。

1. マタイの福音書—イエスの王としての姿

「マタイの福音書」は、イエス・キリストが「ユダヤの王」であり、旧約聖書で予言されていた救い主であることを強調しています。イエスの生まれや、彼が行った教えや奇跡、また十字架の死と復活について記録されており、神の愛がすべての人に注がれていることを教えています。この福音書を通じて、私たちはイエスの生涯とその意味を深く知ることができるでしょう。

2. マルコの福音書—力強い行動者としてのイエス

「マルコの福音書」は、イエスの力強い行動に焦点を当て、彼が神の子としてどのように人々を助け、癒し、導いたかが描かれています。マルコの福音書は4つの福音書の中でも最も短く、簡潔なスタイルで書かれているため、初めて聖書に触れる方にとって読みやすい内容です。イエスの行動を通して、私たちが困難な時にも力強く支えてくださる神の姿が伝わってきます。

3. ルカの福音書—思いやり深い救い主イエス

「ルカの福音書」は、イエスがどのようにして社会の中で弱い立場にある人々に寄り添い、癒しをもたらしたかを描いています。貧しい人々や病に苦しむ人、社会から疎外されている人々に対するイエスの愛と慈しみが細かく記録されています。イエスが示す「愛と共感」の姿は、私たちにとっても生きるための大切な指針となるでしょう。

4. ヨハネの福音書—神の愛を伝えるイエス

「ヨハネの福音書」は、イエスが神の子として、神の愛をどのように伝えたかが中心テーマです。イエスは「私は道であり、真理であり、命である」と語り、私たちが神との関係を通じて永遠の命を得ることを教えています。ヨハネの福音書にはイエスが示した深い愛と信仰の意義が綴られており、そのメッセージは今を生きる私たちにも多くの気づきを与えてくれるでしょう。

聖書の学びに参加してみませんか?

この4つの福音書は、イエス・キリストがどのような人物であり、彼の教えがいかに私たちの日常や人生に影響を与えるかを深く知るための大切な扉です。

聖書の学びを通じて、競争やプレッシャーに満ちた毎日に疲れている心が癒され、より深い視点から自分自身と向き合う力が与えられるでしょう。どなたでも歓迎いたしますので、ぜひお気軽にお越しください。

聖書の学びを通じて、神の愛に触れる新しい体験をしてみませんか?教会でお待ちしております。

「社会の混乱に心が揺れるとき」ー聖書が教える平安と希望

現代社会では、日々ニュースで伝えられる出来事に不安を感じる人が少なくありません。戦争や経済の不安定さ、気候変動、社会の分断──これらは私たちの心を重くし、将来への希望を見失わせる要因となり得ます。「これからどうなってしまうのだろう」と思い悩むこともあるでしょう。

そんな時、聖書は私たちに平安と確かな希望を与えてくれる存在です。

なぜ不安を感じるのか?
不安を感じる理由は様々です。例えば、ニュースで伝えられる出来事は多くの場合、私たちがコントロールできないものです。未来がどうなるか分からないという不透明さは、心に不安をもたらします。

聖書も、このような状況を予見しています。「あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)。イエスは、私たちが世の中で苦難に直面することを認めていますが、同時にそれを超える平安を持つことができると教えています。

聖書が教える不安に打ち勝つ方法
聖書には、不安な時に心の支えとなる数多くの教えがあります。

1. 神に信頼する
社会がどれほど混乱していても、神はすべてを支配しておられます。聖書は、「神はわれらの避け所。また力。苦しむとき、そこにある強き助け」(詩篇46:1)と語ります。人間の力では解決できない問題も、神は全知全能の力で導いてくださいます。私たちが神に信頼を置く時、不安は平安に変わるのです。

2. 日々の心配を神に委ねる
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(マタイ6:34)。私たちは、明日のことを心配するあまり、今日という日を見失いがちです。しかし、神は必要なものをその時々に備えてくださいます。心配を神に委ねることで、私たちは重荷を下ろし、心の平安を取り戻すことができます。

3. 永遠の希望を見つめる
世の中の出来事は一時的なものであり、永遠の視点から見るとほんの一瞬です。聖書は、「この世における軽い苦しみは、やがて現れる栄光に比べると、取るに足りない」(2コリント4:17)と教えています。この地上の混乱を超えて、神が用意している永遠の希望に目を向ける時、私たちは日々の不安を乗り越える力を得ることができます。

聖書の学びがもたらす平安
聖書の学びは、不安に満ちた時代を生き抜くための確かな支えを提供します。

1. 神の約束を知る
聖書には、神が私たちを守り、導くという約束が数多く記されています。「主はあなたを見守り、すべての災いから守られる」(詩篇121:7)。このような神の約束を知ることで、将来への漠然とした不安を希望へと変えることができます。

2. 真理を見極める力が与えられる
現代は情報が溢れ、その中から何を信じれば良いのか迷うこともあります。聖書は、「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)と語ります。聖書を通じて、私たちは神の真理を知り、混乱した世の中で確かな指針を持つことができるのです。

3. 支え合うコミュニティに加わる
聖書の学びは、一人で行うものではありません。同じ信仰を持つ仲間とともに学び、祈り合うことで、不安を分かち合いながら希望を共有することができます。信仰の仲間との交わりは、孤独を癒し、心を強める大きな助けとなるでしょう。

社会が不安定な時代を生きる私たちにとって、聖書は希望と平安を与えてくれる道しるべです。神の愛と導きに触れることで、私たちはどんな混乱の中でも揺るがない信仰と心の平安を得ることができます。

ぜひ、聖書の学びを始めてみませんか?神は、あなたがどんな時でも安心して歩めるように、確かな約束と導きを与えてくださいます。

「人を信じられなくなったとき」ー聖書が教える信頼の回復

誰かを信じるということは、私たちの人間関係の中で大切な柱の一つです。しかし、信じていた人に裏切られたり、失望させられたりする経験をすると、「もう誰も信じたくない」「人を信じるなんて無理だ」と感じてしまうことがあります。そのような心の傷は深く、私たちを孤独にし、他人と距離を置く原因になり得ます。

けれども、そんな傷ついた心を持つあなたにこそ、聖書は希望と癒しを与えるメッセージを持っています。

なぜ人を信じることが難しいのか?
人間は誰もが不完全です。どんなに親しい人でも、時には私たちを失望させることがあります。聖書はこの現実をはっきりと語っています。「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができない」(ローマ3:23)。人間には弱さがあり、間違いを犯す存在だということを聖書は正直に教えています。

そのため、私たちが人間関係において傷つくことがあるのは避けられないことかもしれません。しかし、だからといって全ての人を信じない選択をするのではなく、聖書が教える「正しい信頼の置き方」を学ぶことで、私たちは人間関係を健やかに保ち、回復することができるのです。

信じる対象を正しく選ぶ
人を信じることができなくなった時、私たちはどこに目を向ければ良いのでしょうか?聖書は、まず「完全で変わることのない存在」である神に信頼を置くことを教えています。

「主に信頼せよ。心を尽くして自分の悟りに頼るな」(箴言3:5)。人間は変わりやすく、時に私たちを傷つけることもありますが、神は決して私たちを裏切ることがありません。神の愛は変わらず、私たちの心の支えとなります。

信じられる相手を知るための知恵
聖書はまた、どんな人を信頼すべきかを教えてくれます。「善良な人とともに歩む者は善良になる。愚かな者と交わる者は害を受ける」(箴言13:20)。聖書は私たちに、周囲の人間関係を慎重に見極める知恵を与えます。そして、信頼できる人を選び、その人との関係を深めるよう勧めています。

聖書の学びが人間関係の回復に役立つ理由
聖書を学ぶことは、傷ついた心を癒し、信頼を取り戻すための道を示してくれます。

1. 神の愛に触れる
聖書は、私たちがどれほど神に愛されているかを教えています。「神は私たちを愛しておられ、私たちのために御子を遣わされました」(ヨハネ3:16)。たとえ人間関係が壊れても、神の愛は変わることがありません。この愛に触れることで、私たちは心の平安を得て、人を信じる力を回復することができます。

2. 心の癒しを受ける
詩篇には「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる。霊の砕かれた者を救われる」(詩篇34:18)とあります。傷ついた心を癒すのは、神の言葉の力です。聖書を通じて語られる神の慰めは、どんな痛みも癒し、希望をもたらします。

3. 正しい人間関係を築く力を得る
聖書は、私たちが健全な人間関係を築くための教訓に満ちています。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というイエスの教えは、信頼と愛の基盤を築くための重要な指針です。聖書の学びを通じて、私たちは神と人との関係を健やかに保つ方法を学べます。

私たちの教会では聖書の学びをおすすめしています。聖書の教えを通じて、神の愛と希望に触れることができます。また、同じように癒しを求めている仲間たちと出会い、共に学び、支え合う機会も得られます。

聖書の学びは、ただ聖書を読むだけでなく、具体的な人生の悩みに応じた助けを見つける場でもあります。初めての方でも安心して参加できる環境を整えていますので、ぜひ気軽にお越しください。

おわりに
人を信じることができなくなったとき、私たちは孤独や不安の中に閉じこもりがちです。しかし、聖書はあなたに希望と癒しをもたらすものです。神の愛に触れ、もう一度信じる力を取り戻してみませんか?この記事を読んでくださったあなたが、神の言葉に導かれ、新たな一歩を踏み出すことができるよう願っています。

ぜひ、私たちの教会で聖書の学びを始めてみてください。神は、あなたが再び人を信じ、愛することができるよう導いてくださいます。あなたの参加を心よりお待ちしています。

聖書から学ぶ後悔のない人生を生きるためのヒント

後悔のない人生を生きるためのヒントを得られる
「後悔しない人生を送りたい」――多くの人がそう願っているのではないでしょうか?日々の選択や決断の中で、「これで良かったのか」と悩むこともあるでしょう。人生には正解が見えない場面が多くありますが、そんなときに頼りになるのが聖書です。今回は、聖書から得られるヒントがどのように後悔の少ない人生へと導いてくれるのかをご紹介します。

1. 聖書は人生のガイドブック
聖書はただの古い宗教書ではありません。聖書には、私たちの人生を豊かにし、正しい方向へ導いてくれる知恵が詰まっています。例えば、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉(マタイ22:39)は、他人との関係を円滑にするための基本的な教えです。また、「すべてのことに感謝しなさい」(テサロニケ第一5:18)という教えは、困難な状況でも心の平安を保つ秘訣を教えてくれます。

これらの言葉は、古代のものにとどまらず、現代の私たちの日々の生活にも適用できるものです。聖書を読むことで、人生の迷いや不安に光を与えてくれる道筋を見つけることができます。

2. 人生の目的を見つける
後悔の少ない人生を送るためには、ただ毎日を過ごすだけでなく、人生の目的を持つことが大切です。しかし、「自分はなぜ生きているのだろう」と考えたとき、答えが見つからないこともあるでしょう。

聖書は、私たち一人ひとりが神によって特別に作られた存在であり、私たちの人生には意味と目的があると教えています(エレミヤ29:11)。この視点を持つことで、日々の生活がただの繰り返しではなく、意味のある旅であると感じられるようになります。

3. 過去の過ちを乗り越える力を与える
「こんなことをしてしまった」「あの時こうしていれば」と、過去の過ちを悔やむことはありませんか?聖書は、私たちの心の重荷を取り去る方法を教えています。

例えば、イエス・キリストの言葉には、「悔い改める者は許される」というメッセージがあります(ヨハネ第一1:9)。自分の過ちを素直に認め、心を改めることで、神はその罪を許し、新たなスタートを切る力を与えてくれます。過去に縛られず、前に進むことができるのです。

4. 他者との関係を修復する知恵
多くの後悔は、人間関係から生まれます。言いすぎた言葉、分かり合えなかった気持ち……。聖書には、人間関係を修復するためのヒントが数多く記されています。

例えば、「怒るのをやめなさい。憤りを捨てなさい」(詩篇37:8)という教えは、争いを避けるためのシンプルなアドバイスです。また、「自分にしてほしいことを他人にもする」(マタイ7:12)という黄金律は、すべての人間関係における基本の原則と言えるでしょう。

5. 聖書は答えを押し付けない
最後にお伝えしたいのは、聖書はあなたに答えを押し付けるものではないということです。むしろ、自分の人生に問いを投げかけ、深く考えるきっかけを与えてくれる存在です。これこそが、聖書を読むことで得られる大きな価値です。

「聖書を学ぶ」と聞くと少し難しく感じるかもしれませんが、何も特別な知識や準備は必要ありません。まずは聖書を開き、簡単な箇所から読んでみてください。分からないことがあれば、教会に来て質問してください。私たちは、あなたが聖書を通じて新しい視点を得られるようお手伝いしたいと思っています。

後悔の少ない人生を生きるためのヒントは、すでにあなたの手の届く場所にあります。

孤独に寄り添う神の愛

都心の街は昼夜を問わず活気に満ち、多くの人々が行き交っています。しかし、そんな都会の中でも、孤独を感じる瞬間があります。周囲に人がたくさんいても、心の中でぽっかりと空いた穴を埋められない、そんな感覚に悩む方も多いのではないでしょうか。

聖書は、孤独を感じる私たちに向けて多くの励ましのメッセージを語っています。まず、詩篇34篇18節にはこう記されています。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」この言葉は、神が私たちの痛みを無視するのではなく、それを深く理解し、共に歩んでくださることを約束しています。孤独に苦しむとき、それは神が私たちに近づきたいと願っておられる瞬間でもあるのです。

聖書の中には、孤独と向き合った多くの人物が登場します。旧約聖書の預言者エリヤは、使命に疲れ、誰にも理解されないと感じて荒野で孤立しました(列王記上19章)。しかし、そのとき神はエリヤに静かに語りかけ、彼を回復へと導きました。また、新約聖書では、イエス・キリストご自身も孤独を経験されました。十字架にかけられる前夜、彼は最も信頼していた弟子たちから離れられ、深い孤独の中で祈られました。それでもイエスは私たちを救うため、愛を示すために、その孤独を受け入れられたのです。

このイエスの愛は、今日の私たちにも及んでいます。ヘブル人への手紙13章5節には、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを置き去りにしない」という力強い約束が記されています。この言葉は、私たちがどんな状況にあっても、神が共にいてくださるという希望を与えます。孤独や孤立を感じるとき、それは私たちが一人きりなのではなく、神がそっとそばに寄り添ってくださる時なのです。

現代の生活は、SNSや仕事、学校などの人間関係で表面的に満たされているように見えて、実際には深い絆を築くことが難しい時代です。しかし、聖書のメッセージは、真の満たしは神との関係から生まれることを教えています。イエスはヨハネの福音書14章27節で、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます」と語られました。この平安は、他の何物にも代えがたい、心を満たす真の平安です。

神の愛は、どんな状況でもあなたを迎え入れ、あなたの心を癒す準備ができています。シティバプテスト教会は、この渋谷の街で、都会の忙しさに疲れた心を癒すための温かい居場所を提供したいと願っています。聖書を学び、神の愛を知ることで、孤独な心に希望と新しい道が開かれることを一緒に体験しませんか?

あなたがどんな思いを抱えていても、神の愛はいつでもあなたを歓迎しています。孤独の中で見出す平安と希望を、私たちとともに分かち合いましょう。