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「罪」を知り、神の前に正しく歩むことのすばらしさ

「罪」という言葉を聞くと、重々しい響きを感じるかもしれません。「私は悪いことなんてしていない」と思う方もいるでしょう。
しかし、聖書が語る「罪」とは、私たちが想像する以上に深い意味を持っています。そして、罪を知り、それを赦してくださる神の愛を受け入れることは、人生に驚くべき平安と喜びをもたらします。

罪とは何か?
聖書が教える「罪」とは、「神の基準に届かないこと」を意味します。
神は私たちを愛し、完全な愛と正義の中で生きるように望まれています。
しかし、私たちは日々の中で、自分勝手な思いや行動をしてしまい、神が求める姿から離れてしまうのです。

ローマ人への手紙にはこう書かれています。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)

これは、誰もが心の中に罪を持ち、それが原因で神と完全に交わることができない状態を示しています。
たとえ大きな犯罪を犯していなくても、心の中にある怒り、妬み、嘘なども、神の前では罪にあたります。

罪の結果
罪は、神との関係を壊し、私たちの心を不安や孤独で満たします。
聖書は、罪がもたらす最終的な結果についてこう警告しています。

「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)

ここで言う「死」とは、肉体的な死だけでなく、神との永遠の分離を指します。
しかし、神は私たちを見捨てることなく、この罪の問題を解決する道を備えてくださいました。

イエス・キリストによる赦し
神は私たちを深く愛し、罪の問題を解決するためにイエス・キリストをこの世に送られました。
イエスは十字架で私たちの罪を背負い、その代価を支払うために死なれました。
そして、死を打ち破り復活されたことで、罪と死の力に勝利されたのです。

「しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)

私たちが自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主として受け入れるとき、罪は赦され、神との関係が回復します。
この赦しは、どんなに大きな罪であっても、完全で無条件のものです。

神の前に正しく歩むことのすばらしさ
罪の赦しを受けた者には、新しい生き方が与えられます。
それは、罪に縛られた過去から解放され、神の愛と恵みの中で自由に歩む人生です。

神の前に正しく歩むとは、単に「良い行いをする」ということではありません。
それは、神を信じ、神と共に生きる喜びを持つことです。
私たちは、神の愛に応える形で、感謝と謙遜の心をもって生活するよう導かれます。

ガラテヤ人への手紙には、こう記されています。

「御霊によって歩むなら、肉の欲望を満たすことはありません」(ガラテヤ5:16)

神の前に正しく歩むとき、私たちの心には平安が訪れ、人との関係も変わり始めます。赦された者として、私たちもまた他者を赦し、愛する力を得るのです。

罪を認めることは重荷ではなく、自由への道
罪を認めることは、自分を責めるためではなく、神の愛と赦しを受け取る第一歩です。
罪を告白することで、私たちはその重荷から解放されます。ヨハネの手紙にはこうあります。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)

罪を認めるのは恥ずべきことではなく、神の愛に触れる素晴らしい機会なのです。

私たちは皆、罪を持つ存在ですが、神はそのままの私たちを愛し、赦しを与えたいと願っています。
そして、赦された私たちは、新しい希望と目的を持って生きることができます。
神の前に正しく歩むことの喜びを、一緒に体験してみませんか?
あなたを教会でお迎えできることを心からお待ちしています。

聖書の魅力を知る—4つの福音書から読み始めてみませんか

聖書に興味があるけれど、どこから始めたらいいのかわからない、そんな方も多いのではないでしょうか?私たちのシティバプテスト教会では、初心者の方でも参加しやすい聖書の学びの機会を提供しています。特に、キリスト教の核心である「4つの福音書」は、初めての方にとってもとてもわかりやすく、キリスト教の基礎を知るための絶好の入り口です。

今回は、聖書の中でも特に大切にされている「4つの福音書」について、その概要をご紹介します。これを通じて、イエス・キリストがどのような人物であり、何を教えてくれたのか、少しでも興味を持っていただければ幸いです。

1. マタイの福音書—イエスの王としての姿

「マタイの福音書」は、イエス・キリストが「ユダヤの王」であり、旧約聖書で予言されていた救い主であることを強調しています。イエスの生まれや、彼が行った教えや奇跡、また十字架の死と復活について記録されており、神の愛がすべての人に注がれていることを教えています。この福音書を通じて、私たちはイエスの生涯とその意味を深く知ることができるでしょう。

2. マルコの福音書—力強い行動者としてのイエス

「マルコの福音書」は、イエスの力強い行動に焦点を当て、彼が神の子としてどのように人々を助け、癒し、導いたかが描かれています。マルコの福音書は4つの福音書の中でも最も短く、簡潔なスタイルで書かれているため、初めて聖書に触れる方にとって読みやすい内容です。イエスの行動を通して、私たちが困難な時にも力強く支えてくださる神の姿が伝わってきます。

3. ルカの福音書—思いやり深い救い主イエス

「ルカの福音書」は、イエスがどのようにして社会の中で弱い立場にある人々に寄り添い、癒しをもたらしたかを描いています。貧しい人々や病に苦しむ人、社会から疎外されている人々に対するイエスの愛と慈しみが細かく記録されています。イエスが示す「愛と共感」の姿は、私たちにとっても生きるための大切な指針となるでしょう。

4. ヨハネの福音書—神の愛を伝えるイエス

「ヨハネの福音書」は、イエスが神の子として、神の愛をどのように伝えたかが中心テーマです。イエスは「私は道であり、真理であり、命である」と語り、私たちが神との関係を通じて永遠の命を得ることを教えています。ヨハネの福音書にはイエスが示した深い愛と信仰の意義が綴られており、そのメッセージは今を生きる私たちにも多くの気づきを与えてくれるでしょう。

聖書の学びに参加してみませんか?

この4つの福音書は、イエス・キリストがどのような人物であり、彼の教えがいかに私たちの日常や人生に影響を与えるかを深く知るための大切な扉です。

聖書の学びを通じて、競争やプレッシャーに満ちた毎日に疲れている心が癒され、より深い視点から自分自身と向き合う力が与えられるでしょう。どなたでも歓迎いたしますので、ぜひお気軽にお越しください。

聖書の学びを通じて、神の愛に触れる新しい体験をしてみませんか?教会でお待ちしております。

「社会の混乱に心が揺れるとき」ー聖書が教える平安と希望

現代社会では、日々ニュースで伝えられる出来事に不安を感じる人が少なくありません。戦争や経済の不安定さ、気候変動、社会の分断──これらは私たちの心を重くし、将来への希望を見失わせる要因となり得ます。「これからどうなってしまうのだろう」と思い悩むこともあるでしょう。

そんな時、聖書は私たちに平安と確かな希望を与えてくれる存在です。

なぜ不安を感じるのか?
不安を感じる理由は様々です。例えば、ニュースで伝えられる出来事は多くの場合、私たちがコントロールできないものです。未来がどうなるか分からないという不透明さは、心に不安をもたらします。

聖書も、このような状況を予見しています。「あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)。イエスは、私たちが世の中で苦難に直面することを認めていますが、同時にそれを超える平安を持つことができると教えています。

聖書が教える不安に打ち勝つ方法
聖書には、不安な時に心の支えとなる数多くの教えがあります。

1. 神に信頼する
社会がどれほど混乱していても、神はすべてを支配しておられます。聖書は、「神はわれらの避け所。また力。苦しむとき、そこにある強き助け」(詩篇46:1)と語ります。人間の力では解決できない問題も、神は全知全能の力で導いてくださいます。私たちが神に信頼を置く時、不安は平安に変わるのです。

2. 日々の心配を神に委ねる
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(マタイ6:34)。私たちは、明日のことを心配するあまり、今日という日を見失いがちです。しかし、神は必要なものをその時々に備えてくださいます。心配を神に委ねることで、私たちは重荷を下ろし、心の平安を取り戻すことができます。

3. 永遠の希望を見つめる
世の中の出来事は一時的なものであり、永遠の視点から見るとほんの一瞬です。聖書は、「この世における軽い苦しみは、やがて現れる栄光に比べると、取るに足りない」(2コリント4:17)と教えています。この地上の混乱を超えて、神が用意している永遠の希望に目を向ける時、私たちは日々の不安を乗り越える力を得ることができます。

聖書の学びがもたらす平安
聖書の学びは、不安に満ちた時代を生き抜くための確かな支えを提供します。

1. 神の約束を知る
聖書には、神が私たちを守り、導くという約束が数多く記されています。「主はあなたを見守り、すべての災いから守られる」(詩篇121:7)。このような神の約束を知ることで、将来への漠然とした不安を希望へと変えることができます。

2. 真理を見極める力が与えられる
現代は情報が溢れ、その中から何を信じれば良いのか迷うこともあります。聖書は、「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)と語ります。聖書を通じて、私たちは神の真理を知り、混乱した世の中で確かな指針を持つことができるのです。

3. 支え合うコミュニティに加わる
聖書の学びは、一人で行うものではありません。同じ信仰を持つ仲間とともに学び、祈り合うことで、不安を分かち合いながら希望を共有することができます。信仰の仲間との交わりは、孤独を癒し、心を強める大きな助けとなるでしょう。

社会が不安定な時代を生きる私たちにとって、聖書は希望と平安を与えてくれる道しるべです。神の愛と導きに触れることで、私たちはどんな混乱の中でも揺るがない信仰と心の平安を得ることができます。

ぜひ、聖書の学びを始めてみませんか?神は、あなたがどんな時でも安心して歩めるように、確かな約束と導きを与えてくださいます。

「人を信じられなくなったとき」ー聖書が教える信頼の回復

誰かを信じるということは、私たちの人間関係の中で大切な柱の一つです。しかし、信じていた人に裏切られたり、失望させられたりする経験をすると、「もう誰も信じたくない」「人を信じるなんて無理だ」と感じてしまうことがあります。そのような心の傷は深く、私たちを孤独にし、他人と距離を置く原因になり得ます。

けれども、そんな傷ついた心を持つあなたにこそ、聖書は希望と癒しを与えるメッセージを持っています。

なぜ人を信じることが難しいのか?
人間は誰もが不完全です。どんなに親しい人でも、時には私たちを失望させることがあります。聖書はこの現実をはっきりと語っています。「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができない」(ローマ3:23)。人間には弱さがあり、間違いを犯す存在だということを聖書は正直に教えています。

そのため、私たちが人間関係において傷つくことがあるのは避けられないことかもしれません。しかし、だからといって全ての人を信じない選択をするのではなく、聖書が教える「正しい信頼の置き方」を学ぶことで、私たちは人間関係を健やかに保ち、回復することができるのです。

信じる対象を正しく選ぶ
人を信じることができなくなった時、私たちはどこに目を向ければ良いのでしょうか?聖書は、まず「完全で変わることのない存在」である神に信頼を置くことを教えています。

「主に信頼せよ。心を尽くして自分の悟りに頼るな」(箴言3:5)。人間は変わりやすく、時に私たちを傷つけることもありますが、神は決して私たちを裏切ることがありません。神の愛は変わらず、私たちの心の支えとなります。

信じられる相手を知るための知恵
聖書はまた、どんな人を信頼すべきかを教えてくれます。「善良な人とともに歩む者は善良になる。愚かな者と交わる者は害を受ける」(箴言13:20)。聖書は私たちに、周囲の人間関係を慎重に見極める知恵を与えます。そして、信頼できる人を選び、その人との関係を深めるよう勧めています。

聖書の学びが人間関係の回復に役立つ理由
聖書を学ぶことは、傷ついた心を癒し、信頼を取り戻すための道を示してくれます。

1. 神の愛に触れる
聖書は、私たちがどれほど神に愛されているかを教えています。「神は私たちを愛しておられ、私たちのために御子を遣わされました」(ヨハネ3:16)。たとえ人間関係が壊れても、神の愛は変わることがありません。この愛に触れることで、私たちは心の平安を得て、人を信じる力を回復することができます。

2. 心の癒しを受ける
詩篇には「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる。霊の砕かれた者を救われる」(詩篇34:18)とあります。傷ついた心を癒すのは、神の言葉の力です。聖書を通じて語られる神の慰めは、どんな痛みも癒し、希望をもたらします。

3. 正しい人間関係を築く力を得る
聖書は、私たちが健全な人間関係を築くための教訓に満ちています。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というイエスの教えは、信頼と愛の基盤を築くための重要な指針です。聖書の学びを通じて、私たちは神と人との関係を健やかに保つ方法を学べます。

私たちの教会では聖書の学びをおすすめしています。聖書の教えを通じて、神の愛と希望に触れることができます。また、同じように癒しを求めている仲間たちと出会い、共に学び、支え合う機会も得られます。

聖書の学びは、ただ聖書を読むだけでなく、具体的な人生の悩みに応じた助けを見つける場でもあります。初めての方でも安心して参加できる環境を整えていますので、ぜひ気軽にお越しください。

おわりに
人を信じることができなくなったとき、私たちは孤独や不安の中に閉じこもりがちです。しかし、聖書はあなたに希望と癒しをもたらすものです。神の愛に触れ、もう一度信じる力を取り戻してみませんか?この記事を読んでくださったあなたが、神の言葉に導かれ、新たな一歩を踏み出すことができるよう願っています。

ぜひ、私たちの教会で聖書の学びを始めてみてください。神は、あなたが再び人を信じ、愛することができるよう導いてくださいます。あなたの参加を心よりお待ちしています。

聖書から学ぶ後悔のない人生を生きるためのヒント

後悔のない人生を生きるためのヒントを得られる
「後悔しない人生を送りたい」――多くの人がそう願っているのではないでしょうか?日々の選択や決断の中で、「これで良かったのか」と悩むこともあるでしょう。人生には正解が見えない場面が多くありますが、そんなときに頼りになるのが聖書です。今回は、聖書から得られるヒントがどのように後悔の少ない人生へと導いてくれるのかをご紹介します。

1. 聖書は人生のガイドブック
聖書はただの古い宗教書ではありません。聖書には、私たちの人生を豊かにし、正しい方向へ導いてくれる知恵が詰まっています。例えば、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉(マタイ22:39)は、他人との関係を円滑にするための基本的な教えです。また、「すべてのことに感謝しなさい」(テサロニケ第一5:18)という教えは、困難な状況でも心の平安を保つ秘訣を教えてくれます。

これらの言葉は、古代のものにとどまらず、現代の私たちの日々の生活にも適用できるものです。聖書を読むことで、人生の迷いや不安に光を与えてくれる道筋を見つけることができます。

2. 人生の目的を見つける
後悔の少ない人生を送るためには、ただ毎日を過ごすだけでなく、人生の目的を持つことが大切です。しかし、「自分はなぜ生きているのだろう」と考えたとき、答えが見つからないこともあるでしょう。

聖書は、私たち一人ひとりが神によって特別に作られた存在であり、私たちの人生には意味と目的があると教えています(エレミヤ29:11)。この視点を持つことで、日々の生活がただの繰り返しではなく、意味のある旅であると感じられるようになります。

3. 過去の過ちを乗り越える力を与える
「こんなことをしてしまった」「あの時こうしていれば」と、過去の過ちを悔やむことはありませんか?聖書は、私たちの心の重荷を取り去る方法を教えています。

例えば、イエス・キリストの言葉には、「悔い改める者は許される」というメッセージがあります(ヨハネ第一1:9)。自分の過ちを素直に認め、心を改めることで、神はその罪を許し、新たなスタートを切る力を与えてくれます。過去に縛られず、前に進むことができるのです。

4. 他者との関係を修復する知恵
多くの後悔は、人間関係から生まれます。言いすぎた言葉、分かり合えなかった気持ち……。聖書には、人間関係を修復するためのヒントが数多く記されています。

例えば、「怒るのをやめなさい。憤りを捨てなさい」(詩篇37:8)という教えは、争いを避けるためのシンプルなアドバイスです。また、「自分にしてほしいことを他人にもする」(マタイ7:12)という黄金律は、すべての人間関係における基本の原則と言えるでしょう。

5. 聖書は答えを押し付けない
最後にお伝えしたいのは、聖書はあなたに答えを押し付けるものではないということです。むしろ、自分の人生に問いを投げかけ、深く考えるきっかけを与えてくれる存在です。これこそが、聖書を読むことで得られる大きな価値です。

「聖書を学ぶ」と聞くと少し難しく感じるかもしれませんが、何も特別な知識や準備は必要ありません。まずは聖書を開き、簡単な箇所から読んでみてください。分からないことがあれば、教会に来て質問してください。私たちは、あなたが聖書を通じて新しい視点を得られるようお手伝いしたいと思っています。

後悔の少ない人生を生きるためのヒントは、すでにあなたの手の届く場所にあります。

孤独に寄り添う神の愛

都心の街は昼夜を問わず活気に満ち、多くの人々が行き交っています。しかし、そんな都会の中でも、孤独を感じる瞬間があります。周囲に人がたくさんいても、心の中でぽっかりと空いた穴を埋められない、そんな感覚に悩む方も多いのではないでしょうか。

聖書は、孤独を感じる私たちに向けて多くの励ましのメッセージを語っています。まず、詩篇34篇18節にはこう記されています。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。」この言葉は、神が私たちの痛みを無視するのではなく、それを深く理解し、共に歩んでくださることを約束しています。孤独に苦しむとき、それは神が私たちに近づきたいと願っておられる瞬間でもあるのです。

聖書の中には、孤独と向き合った多くの人物が登場します。旧約聖書の預言者エリヤは、使命に疲れ、誰にも理解されないと感じて荒野で孤立しました(列王記上19章)。しかし、そのとき神はエリヤに静かに語りかけ、彼を回復へと導きました。また、新約聖書では、イエス・キリストご自身も孤独を経験されました。十字架にかけられる前夜、彼は最も信頼していた弟子たちから離れられ、深い孤独の中で祈られました。それでもイエスは私たちを救うため、愛を示すために、その孤独を受け入れられたのです。

このイエスの愛は、今日の私たちにも及んでいます。ヘブル人への手紙13章5節には、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを置き去りにしない」という力強い約束が記されています。この言葉は、私たちがどんな状況にあっても、神が共にいてくださるという希望を与えます。孤独や孤立を感じるとき、それは私たちが一人きりなのではなく、神がそっとそばに寄り添ってくださる時なのです。

現代の生活は、SNSや仕事、学校などの人間関係で表面的に満たされているように見えて、実際には深い絆を築くことが難しい時代です。しかし、聖書のメッセージは、真の満たしは神との関係から生まれることを教えています。イエスはヨハネの福音書14章27節で、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます」と語られました。この平安は、他の何物にも代えがたい、心を満たす真の平安です。

神の愛は、どんな状況でもあなたを迎え入れ、あなたの心を癒す準備ができています。シティバプテスト教会は、この渋谷の街で、都会の忙しさに疲れた心を癒すための温かい居場所を提供したいと願っています。聖書を学び、神の愛を知ることで、孤独な心に希望と新しい道が開かれることを一緒に体験しませんか?

あなたがどんな思いを抱えていても、神の愛はいつでもあなたを歓迎しています。孤独の中で見出す平安と希望を、私たちとともに分かち合いましょう。

「模範的な人生を目指して」ー聖書が教える真の生き方

多くの人が「模範的な人生」を送りたいと願っています。それは、自分だけでなく周囲にも良い影響を与え、充実した日々を送る人生です。しかし、その具体的な道筋を見つけるのは簡単ではありません。時に私たちは「何が正しいのか」「どうすれば人として成長できるのか」と迷い、悩むことがあります。

そんな中で、聖書は模範的な人生を生きるための最良の道しるべとなります。聖書には、私たちがどのようにして本当に価値のある人生を歩むべきか、その秘訣が詰まっています。本記事では、聖書が教える模範的な人生の本質と、聖書の学びを通じて得られる祝福についてお伝えします。

模範的な人生とは何か?
模範的な人生は、単に成功や名声を追い求めるものではありません。それは、他者を愛し、誠実で責任ある行動を取る人生です。聖書は、模範的な人生の基盤が「神を愛し、人を愛すること」にあると教えています。

イエスは次のように語られました。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが大切な第一の戒めです。そして第二もそれと同じように重要です。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』」(マタイ22:37–39)。

模範的な人生を生きるとは、神と人への愛を土台にした生き方をすることです。この愛が行動の基準となるとき、私たちは誰もが手本としたいと願う人生を築くことができます。

聖書が教える模範的な生き方の特長
1. 謙遜さと誠実さを持つ
聖書は、謙遜と誠実が模範的な人格の核であると教えています。「自分を低くする者は高められ」(ルカ14:11)。謙遜とは、自分を過小評価することではなく、自分の価値を正しく理解し、他者を尊重する姿勢です。また、誠実さは、見えないところでも正しいことを行う心を意味します。この二つの美徳は、模範的な人生を生きるための基本です。

2. 責任を果たす
聖書は、与えられた役割を忠実に果たすことの重要性を強調しています。「主はこう言われました。『よくやった。良い忠実なしもべだ』(マタイ25:21)。仕事や家庭、地域社会で与えられた責任を果たすことは、模範的な生き方の一部です。小さなことに忠実である人は、大きなことでも信頼されます。

3. 他者への愛を行動に表す
「隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉は、模範的な人生に欠かせない原則です。この愛は単なる感情ではなく、具体的な行動に表れるものです。たとえば、困っている人を助け、心の重荷を共に担い、相手の必要を理解しようとする姿勢が、模範的な生き方の一環です。

4. 神を中心に据える
模範的な人生の土台は、神との関係です。「主を恐れることは知恵の初め」(箴言1:7)。私たちが神の教えを中心に据えるとき、日々の決断や行動が導かれ、神の栄光を反映する生き方が可能になります。

聖書の学びがもたらす祝福
模範的な人生を目指す中で、聖書の学びは欠かせない助けとなります。

1. 正しい価値観が与えられる
現代社会では、成功や富、名声が人生の価値基準とされがちです。しかし、聖書は永遠に変わらない価値観を教えています。「人が全世界を得ても、自分の命を失ったら、何の得があるでしょう」(マタイ16:26)。聖書を学ぶことで、本当に大切なものを見極める力が与えられます。

2. 実践的な教えを学べる
聖書には、日常生活で実践できる具体的な教えが詰まっています。たとえば、どのようにして誠実であるか、どのようにして困難に対処するか、他者と健全な関係を築くか、といった内容です。これらの教えを実践することで、模範的な生き方が現実のものとなります。

3. 信仰の仲間とつながる
聖書の学びは、一人で行うものではありません。同じ目標を持つ仲間たちと一緒に学ぶ中で、お互いを励まし合い、共に成長することができます。この信仰の交わりは、模範的な生き方を続ける大きな助けとなります。

模範的な人生とは、単に外見的な成功を追い求めることではなく、神を中心に据え、他者を愛し、誠実で責任ある生き方をすることです。聖書はその道筋を明確に示してくれる指針です。

ぜひ、聖書の学びを始めてみませんか?神の愛と真理に触れることで、あなたの人生がさらに豊かに、模範的なものへと変わることを心から願っています。

御利益宗教ではないキリスト教

日本では、「宗教」という言葉から、何か特定の願いを叶えるためにお参りをしたり、儀式を行ったりする「御利益宗教」を思い浮かべる方が多いかもしれません。

しかし、キリスト教はそのような「願いを叶えるための宗教」ではありません。キリスト教の中心は、神との関係にあります。ここでは、キリスト教が御利益宗教ではない理由を聖書に基づいて説明します。

①キリスト教の本質は「救い」と「愛の関係」
キリスト教が目指すのは、私たち人間が「神との正しい関係を回復すること」です。聖書にはこう書かれています。

「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

この「永遠のいのち」とは、単に死後の安らぎや幸福を意味するだけではありません。
今この瞬間から神と共に生きること、そして神の愛の中に生きることを指しています。
キリスト教は、私たちの願いや成功を叶えるのではなく、罪によって壊れた神との関係を修復し、私たちが本来あるべき姿に導くものです。

②「与える神」ではなく「共に歩む神」
多くの人が宗教に「ご利益」を求める背景には、「何かをしてくれる神」というイメージがあります。しかし、聖書が教える神は、単に願いを叶える存在ではありません。むしろ、私たちの弱さや苦しみの中で共に歩んでくださる神です。

たとえば、詩篇にはこう記されています。

「たとえ死の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです」(詩篇23:4)。

神は私たちの人生を安全地帯に閉じ込めたり、すべての問題を取り除くことを約束されているわけではありません。
それよりも、試練の中でも私たちと共にいて、私たちを支え、導いてくださるのです。

③試練の中での神の目的
キリスト教の信仰を持つ人も、人生で困難や苦しみを経験します。信仰はそのような問題を魔法のように解決するものではありません。それどころか、聖書には信仰を持つがゆえの試練についても記されています。

たとえば、イエス・キリスト自身も人々からの拒絶や十字架の苦しみを経験されました。イエスはこう言われました。

「この世では苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)。

試練を通して神が私たちを成長させ、信仰を深めることがあります。その中で私たちは、自分の力ではなく、神に頼ることの大切さを学びます。

④求められるのは「受け取る信仰」
キリスト教では、「これをすればご利益がある」「これをしなければ罰を受ける」という考え方を採用していません。聖書が教える神の恵みは、行いや努力によって得られるものではなく、信仰によって無条件に与えられるものです。

「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)。

この「救い」は、何かを達成する対価として与えられるのではなく、神が与えてくださる愛の贈り物です。私たちはただ、それを信じ、受け取るだけなのです。

⑤ご利益を超えた希望
キリスト教は、私たちの願いや必要を無視するわけではありません。神は私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方です。
しかし、神は単に願いを叶えるのではなく、私たちにもっと大きなもの—それは、永遠のいのちと、困難の中でも希望を持てる力—を与えようとされています。

キリスト教は、私たちの人生の目的を「何かを得ること」から「神と共に歩むこと」へと変えます。その結果、私たちは人生のどんな状況でも平安と喜びを見出すことができるのです。

最後に キリスト教は、「願いが叶うかどうか」ではなく、「人生そのものが神との愛の関係の中で変えられる」という信仰です。もし、神との本当の関係に興味があるなら、ぜひ一歩踏み出してみてください。教会では、あなたがその関係を深めるお手伝いをすることを願っています。