「罪」という言葉を聞くと、重々しい響きを感じるかもしれません。「私は悪いことなんてしていない」と思う方もいるでしょう。
しかし、聖書が語る「罪」とは、私たちが想像する以上に深い意味を持っています。そして、罪を知り、それを赦してくださる神の愛を受け入れることは、人生に驚くべき平安と喜びをもたらします。
罪とは何か?
聖書が教える「罪」とは、「神の基準に届かないこと」を意味します。
神は私たちを愛し、完全な愛と正義の中で生きるように望まれています。
しかし、私たちは日々の中で、自分勝手な思いや行動をしてしまい、神が求める姿から離れてしまうのです。
ローマ人への手紙にはこう書かれています。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)
これは、誰もが心の中に罪を持ち、それが原因で神と完全に交わることができない状態を示しています。
たとえ大きな犯罪を犯していなくても、心の中にある怒り、妬み、嘘なども、神の前では罪にあたります。
罪の結果
罪は、神との関係を壊し、私たちの心を不安や孤独で満たします。
聖書は、罪がもたらす最終的な結果についてこう警告しています。
「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)
ここで言う「死」とは、肉体的な死だけでなく、神との永遠の分離を指します。
しかし、神は私たちを見捨てることなく、この罪の問題を解決する道を備えてくださいました。
イエス・キリストによる赦し
神は私たちを深く愛し、罪の問題を解決するためにイエス・キリストをこの世に送られました。
イエスは十字架で私たちの罪を背負い、その代価を支払うために死なれました。
そして、死を打ち破り復活されたことで、罪と死の力に勝利されたのです。
「しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)
私たちが自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主として受け入れるとき、罪は赦され、神との関係が回復します。
この赦しは、どんなに大きな罪であっても、完全で無条件のものです。
神の前に正しく歩むことのすばらしさ
罪の赦しを受けた者には、新しい生き方が与えられます。
それは、罪に縛られた過去から解放され、神の愛と恵みの中で自由に歩む人生です。
神の前に正しく歩むとは、単に「良い行いをする」ということではありません。
それは、神を信じ、神と共に生きる喜びを持つことです。
私たちは、神の愛に応える形で、感謝と謙遜の心をもって生活するよう導かれます。
ガラテヤ人への手紙には、こう記されています。
「御霊によって歩むなら、肉の欲望を満たすことはありません」(ガラテヤ5:16)
神の前に正しく歩むとき、私たちの心には平安が訪れ、人との関係も変わり始めます。赦された者として、私たちもまた他者を赦し、愛する力を得るのです。
罪を認めることは重荷ではなく、自由への道
罪を認めることは、自分を責めるためではなく、神の愛と赦しを受け取る第一歩です。
罪を告白することで、私たちはその重荷から解放されます。ヨハネの手紙にはこうあります。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)
罪を認めるのは恥ずべきことではなく、神の愛に触れる素晴らしい機会なのです。
私たちは皆、罪を持つ存在ですが、神はそのままの私たちを愛し、赦しを与えたいと願っています。
そして、赦された私たちは、新しい希望と目的を持って生きることができます。
神の前に正しく歩むことの喜びを、一緒に体験してみませんか?
あなたを教会でお迎えできることを心からお待ちしています。