日本では、「宗教」という言葉から、何か特定の願いを叶えるためにお参りをしたり、儀式を行ったりする「御利益宗教」を思い浮かべる方が多いかもしれません。
しかし、キリスト教はそのような「願いを叶えるための宗教」ではありません。キリスト教の中心は、神との関係にあります。ここでは、キリスト教が御利益宗教ではない理由を聖書に基づいて説明します。
①キリスト教の本質は「救い」と「愛の関係」
キリスト教が目指すのは、私たち人間が「神との正しい関係を回復すること」です。聖書にはこう書かれています。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。
この「永遠のいのち」とは、単に死後の安らぎや幸福を意味するだけではありません。
今この瞬間から神と共に生きること、そして神の愛の中に生きることを指しています。
キリスト教は、私たちの願いや成功を叶えるのではなく、罪によって壊れた神との関係を修復し、私たちが本来あるべき姿に導くものです。
②「与える神」ではなく「共に歩む神」
多くの人が宗教に「ご利益」を求める背景には、「何かをしてくれる神」というイメージがあります。しかし、聖書が教える神は、単に願いを叶える存在ではありません。むしろ、私たちの弱さや苦しみの中で共に歩んでくださる神です。
たとえば、詩篇にはこう記されています。
「たとえ死の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです」(詩篇23:4)。
神は私たちの人生を安全地帯に閉じ込めたり、すべての問題を取り除くことを約束されているわけではありません。
それよりも、試練の中でも私たちと共にいて、私たちを支え、導いてくださるのです。
③試練の中での神の目的
キリスト教の信仰を持つ人も、人生で困難や苦しみを経験します。信仰はそのような問題を魔法のように解決するものではありません。それどころか、聖書には信仰を持つがゆえの試練についても記されています。
たとえば、イエス・キリスト自身も人々からの拒絶や十字架の苦しみを経験されました。イエスはこう言われました。
「この世では苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)。
試練を通して神が私たちを成長させ、信仰を深めることがあります。その中で私たちは、自分の力ではなく、神に頼ることの大切さを学びます。
④求められるのは「受け取る信仰」
キリスト教では、「これをすればご利益がある」「これをしなければ罰を受ける」という考え方を採用していません。聖書が教える神の恵みは、行いや努力によって得られるものではなく、信仰によって無条件に与えられるものです。
「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)。
この「救い」は、何かを達成する対価として与えられるのではなく、神が与えてくださる愛の贈り物です。私たちはただ、それを信じ、受け取るだけなのです。
⑤ご利益を超えた希望
キリスト教は、私たちの願いや必要を無視するわけではありません。神は私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方です。
しかし、神は単に願いを叶えるのではなく、私たちにもっと大きなもの—それは、永遠のいのちと、困難の中でも希望を持てる力—を与えようとされています。
キリスト教は、私たちの人生の目的を「何かを得ること」から「神と共に歩むこと」へと変えます。その結果、私たちは人生のどんな状況でも平安と喜びを見出すことができるのです。
最後に キリスト教は、「願いが叶うかどうか」ではなく、「人生そのものが神との愛の関係の中で変えられる」という信仰です。もし、神との本当の関係に興味があるなら、ぜひ一歩踏み出してみてください。教会では、あなたがその関係を深めるお手伝いをすることを願っています。